始めての広告。充実と忙しさのはき違え。
仕事としてのデザインや、広告というものがなんであるか、
自分のやりたいこととの乖離、
そういうことをその広告制作会社にいる間に学んだと思います。
楽しい先輩デザイナーたちに恵まれ、企画段階でのラフ作成、
撮影やデザインの補助、進行管理、徹夜の校正など、激務だけど充実感もありました。
何と言っても若かったので何とかなった。笑
しかし、途中で入ってきた同世代で自信満々のデザイナー関西男子に馬鹿にされながら
お前デザインわかってないやろ!と会社のベランダで説教されたり(デザイナーキツイコワイトラウマ再び)、
チラシやカタログの校正で徹夜が増えていくたびに湧き起こる心のもやもやは積もっていきました。
結局、私は広告を作りたいわけじゃないんだとわかってしまった時の自分のみじめさといったらありません。その時お兄さん的な存在だったデザイナーさんに泣きついて、やりたいことがわからなくなりましたぁ~と夜中の事務所で話した記憶があります。
ああ、恥ずかしい。しかし、あの時忍耐強く聞いてくれてありがとうございます、K先輩。
絵は趣味で、言葉は仕事で使おうか。。。
そしてそのまま仕事を辞めてバーンアウト気味になった私は、その後一年近く仕事ができない状態になりました。
いわゆる「ニート」です。
いい学校にも行かせてもらったし留学までしたのに、外国語も使わず広告制作会社で残業徹夜。
挙句の果てにやりたいことと違うと言って会社を辞めてひきこもる。
親にとっては大変困った娘でした。笑
広告の仕事も自分のやりたいことと何か違うと手放したあと、いろんなことに対して自信を喪失したニートあさり涼子。
それまで常に目標を決めて、その時その時の目標を達成してきたつもりだった私は、広告業界でがんばるという目標を達成できなかったうえに、何がやりたいのかももはや分からない自分が受け入れられませんでした。
デザインのことで色々いわれるとしんどくて立ち直れない気がしたけれど、なぜか間違いを指摘されてもへこたれないで頑張れると思えたのは言語(英語)を生かす仕事でした。
それは30年弱の人生において一番長く勉強してきた積み上げがあったからだとその当時の私は結論を出し、
ずっと好きだった英語に立ち戻ろうと決めました。
スペイン語は大好きでしたが、日本で日常的に使い続ける難しさから仕事として使うことをあきらめ、
英語だけでもせめて使い続けたいという思いから、再び転職活動で英語を使う仕事を探します。
失業保険も終わり、これは働かないとヤバイぞという瀬戸際だったので
とにかく派遣会社に登録し、手っ取り早く英語を使える事務の仕事を探して
精密機器メーカーで働くOLあさり涼子が復活しました。
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